皆さんこんにちは。15万本以上の爪を施術してきたネイリストでスキンケアカウンセラーの川上あいこです。
ネイルサロンは不思議な空間。手を握り合ったまま過ごす約2時間。
手を握り合っているからなのか、リラックスした密室空間がそうさせるのか、秘密の内緒話しを打ち明けて下さる方がとても多い場所でもあります。
親しいのに友人関係ではない。もしかしたら来月は会わないかもしれない。
近くて遠い関係だからこそ、プライドも恥もなく自分の真っ黒な本心さえも吐き出せてしまうのかもしれない。そんなサロンワーク中のみんなの恋のお話を切り取ってお送り致します。
※許可を頂いたものだけ掲載しています。
※個人を特定できる情報が含まれないよう職業等にフィクションも織り交ぜています。ご了承ください。
#夫殺害計画 編
夫婦喧嘩なんて、たいがい些細なことがきっかけだ。その日の朝も、原因が思い出せないくらいの小さな夫婦喧嘩をした私。
原因は朝食のおかずのことだったかもしれないし、子供のことだったかもしれない。
夫婦の喧嘩というのは、どうしてこんなにも日常的な事柄から溢れ出るのか。
愛しあって結婚したはずの夫のうんこが臭い。それだけでも、十分な喧嘩のネタになるのだから不思議なものだ。
仕事中、主人の顔をふと思い出す度にうんざりする。その日も、私の怒りはその程度には尾を引いていた。
愛して結婚したはずの相手が、こんなに自分をうんざりさせる存在になるなんて。
結婚というものがそうさせるのか、選んだ自分が悪いのか?
顔も見たくない。話もしたくない。食事なんか作りたくない。子供と二人で生きていけたらどんなにいいか。
その日も、そんな話をしていたら、お客様が「ふっ」と笑った。
品よくまとめられた真っ白な銀髪と、見るだけで上質とわかるタートルネックに揺れる大ぶりのパールのネックレス。レンズに少し色のついたメガネの、その奥の大きな瞳までは笑っていなかったろうと思う。
「あいこさん。ご主人を殺そうと思ったことある?」
私の母よりずっと年上の女性が悪戯っぽい声を出す。いつもとは少し違う「女」としてずっとずっと生きてきたのだと感じさせる声だった。
色気とか、知性とか、成熟とか、エロさとか、全て乗り越えたかのような艶のある声は、女性であることを強く感じさせる。
「私はね、あるの。理由なんて忘れてしまったけど。浮気とか、借金とかそんな理由じゃないわね。きっと些細なことよ。
アイロンかけを忘れたとか、靴を磨くのを忘れたとかそんなことを言われた日だったと思う。」
アイロンをかけることを忘れた彼女を、ご主人は強く責めたのだろうか?小言のように囁いたのかもしれないそのたった一言が
「死んで欲しい」と思う感情に火をつけてしまうなんてなんだかイメージが結びつかなかった。
でもきっと、自分すらも気付かない間に、導火線はどんどん短くなってきていたのだ。
心の導火線は、日々の積み重ねでゆっくりゆっくり短くなってゆく。
ある日、急に長さが継ぎ足される日もあれば、一気に短くなって火が付いてしまうこともある。単なるタイミングなのかもしれない。
その日から彼女は、自分が犯人だとはバレずに夫を殺す方法をずっと考えていたそうだ。
包丁で刺すなんて、刺し損ねたら大変なことになる。薬はどうだろう?平凡な主婦でも買えるような人を殺せる薬はあるのだろうか?自然に事故で死なせる為に、バレない細工はないだろうか?
食事に洗剤を混ぜるのはどうだろう?
毎日毎日、ご主人の世話を焼き、笑顔で食事を作り、パンツを洗って干し、夜の生活も営みながら、ずっとずっと考えた「夫の殺し方」。
ふと、私はまだ、そこまで夫を憎んだことがないな、と思った。いや、夫だけではなく誰のことさえも。
「試しに何かを試してみたことはあるんですか?」
あまりにも楽しそうに話す彼女に、つい聞いてみたくなった。
「あるわよ。食事に洗剤を1滴混ぜたの。その夜はどきどきしたけど、なーんにも変わらなかった。当たり前よね。」
大笑いする彼女の赤い爪先はもうすぐ完成の頃だ。燃えるような赤。戦う色といわれる色だ。
「誰かをずっと恨むとか憎み続けるのって、体力がいるのよ。難しいの。ほんの少しの優しさで“私も悪かったな”なんて思ったりしてね。」
「そんな日もあったんだけど、あの人が今も元気に生きていてくれるから、私はこんな年になっても何の心配もせずに暮らせてるのよ。不思議よねぇ。」
何かを思い出すように誰かに向かってそう言った後に、
「自分の手を汚してでも殺したくなったら、その時は離婚しちゃいなさいね。それまでは何とかなるわよ。大丈夫。女は賢いんだから」
にっこり笑って、お孫さんと約束があるからと、パールのネックレスを揺らしながらお店を出て行った。
おわりに
結婚が幸せなものか、不幸なものなのかとよく議論になるのを目にするけれども、どっちも含んでいるからこそ「結婚」なのかもしれないな、と思う。言葉を失うほどに幸福を感じる日もあって、怒りで我を忘れる日もある。そんな日々を過ごしながら「他人」の存在の全てを受け入れていく。
親でも子でもない赤の他人に、「自分」という存在を丸ごとさらけ出して、否定しながらも他人を受け入れて、自分も受け入れられてゆく。そこに「恋心」を残す努力も不可欠だ。そう考えると結婚って難しい。
自分を着飾って、より良く見せて結婚相手を探すのに、結婚した途端「素」の他人を受け入れる生活になるのだから、衝突も幻滅も免れないのは当然な気もする。
白馬に乗った王子様も、家では屁もこくし鼻毛も切るのだ。ガラスの靴を履いていた王女様も、家では尻もかくしヨダレを垂らして眠るのだ。
とりあえず今後は、夫のうんこが臭いくらいで喧嘩するのは止めようと思った。恋の熱病にかかった私が知らなかっただけで、生まれつき猛烈に臭かったのかもしれないし。
(川上あいこ/ハウコレ)