オトナになって失恋したら「またかよ」と思うことがあります。「またあの時と同じ悲しみがやってきて、しかるべき時間が流れないと、心が痛みから解放されないのだな」と。
■若い頃の恋は練習である
若い頃の恋は練習である。こういう考え方です。なんの練習かといえば、当然1つは恋の練習です。2つは生きることの練習です。
若い頃の恋が練習だと言える理由は2つあります。
1つは、若い頃というのは、自分がどう生きるといいのか模索している時期だということです。
オトナの中にもいまだ自分探しをしている人がいますが、多くは自分のことがそれなりにわかっています。
わたしはこの仕事を60歳までやるんだなあとか、こういうふうに生きていくと、かっこいいオトナの女性になれそうだなあとか、およその「目安」みたいなものがわかっています。
つまり自分がどう生きていくといいのか、経験から、自分で納得し理解しているのです。
でも若いとなかなかそうはいかないですよね。
学生であれば、就職先に悩み、それも「なんの仕事に就くといいのかわからない」という、ものすごく漠然とした悩みに心が支配され、生きている心地がしない人もいるでしょう。
そういうふたりが出会って恋に落ちてつきあうのだから大変です。あなたも彼氏も自分探しをしていて、毎日どことなく生きているだけで不安です。不安な者がふたり寄り添えば、うまくいくケースも当然ありますが、どちらかがわけもなく怒ってみたり、わけもなく落ち込んでみたり、もう「相手のことを思いやる」余裕なんてない……。
というようなことを、恋を通して「学んでいる」わけです。
具体的には「自分のことを好きになるにはどうすればいいのか」ということを学習している、つまり愛することの練習を、彼は「させてくれた」ということ。
■異性のハダカに日常感を覚えるまで
2つはエッチのことです。高校生くらいからせっせとヤッていようと、20歳前半だと、まだ男のハダカというものを回数多く見てない女子のほうが多いでしょう。
もっとオトナになれば、一般的には、異性のハダカとか、「そういう行為」に慣れてきます。つまり異性のハダカやそういう行為に、過度なあこがれや嫌悪感を抱かなくなります。
たとえば子供ができて、その子が男の子だった場合、お母さんであるあなたが男子のハダカに妙に嫌悪感を抱いていたのでは、どうにもならないですよね?
「異性のハダカに日常感を覚えるまで」というのも、ひとつの恋の練習です。
だから、恋がうまくいかなくても、そしてそれが原因で失恋したとしても、「彼はわたしに恋の(生きることの)練習をさせてくれたんだ、ありがとう」と思っておくといいのです。
すべては「次!」です。
人生における失敗に、心の痛みを感じたら「次!」。(ひとみしょう/文筆家)