恋愛に限らず、人間関係において人から何かと「求められる」「必要とされる」人って、その人自身、他の人に何かをしてあげたり、与えたりすることを、全く惜しまない人だったりします。
■「与える=モテ」に揺るぎはない
恋愛で、与えることができるものってたくさんあります。
与えるというのは、シンプルに言い換えれば「優しくしてあげること」。
これは例えば、日常的なレベルで言えば、一人で暇そうな男子に世間話を持ちかけてみたり、なんか困っているそぶりが見えたら「大丈夫? 手伝うことある?」と声をかけてあげたり、自分がおやつを食べるときなら、ついでといって一つおすそ分けをしてあげたりといったことでしょう。
こうした優しさが、恋愛で損になることはないなんていうのは、きっと誰にでもわかること。
むしろこういった「与える行為」がモテにつながる理由なんて、わざわざここで細かく説明せずとも、「何かをしてもらうと、ついついこちらもお返しをせずにはいられない効果」(
「返報性の原理」とか呼びますね)や、もっと単純なところでは、男子が勝手にやってくれる「俺のことが好きなの?」勘違いからの好きになっちゃうパターンがありますよね。
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「下手な鉄砲も数打てば当たる」と言ってしまえばかなり大味な評価ですが、その意味では、どんな人でも、ひとまず優しさを(言葉が悪いですが)ばらまいておけば、モテのベクトルが正の方向に動いていくというのはその通りでしょう。
また、どうして「下手な鉄砲」なのかと言えば、それは簡単で、自分が「これはいいはず」と思っている優しさも、相手にとって「当たり」なのかどうかがわからないものだから。
自分としてはとっておきの優しさでも、それに相手が感動してくれるかなんて全くわかりません。「当たり」を撃ち抜くには、それこそ「数打つ」ことが大切なんですね。
与えることを惜しまないことの大切さは、ここにもあります。
■与える人は、あざとい?
こういうことを言うと、「それって、やたらめったに優しくするってこと?結局見返り期待してて、あざとくない?」みたいな反論が飛んでくるのですが、ではどうでしょう。
上の例と違って、本当に好きな男子にだけ、本当の要所でだけ、優しさを振りまいてあげる。
でもそれって、その好きな彼に、今その瞬間「かわいい!」とか「優しい!」とか思われたくて、優しくしてるってことだけど、そっちの方が、「この優しさを、今この瞬間評価されたいのだー!」というかなり強めの欲にまみれた、「あざとい」優しさじゃありませんか?
それよりむしろ、普段から特別な意識はなく優しさを振りまいている人の方が、あざとさからは遠い存在に感じます。
こういう重要なポイントでだけ与える女子が「裏表がある」とか言われちゃうのに、与えることを惜しまない人がカラッとして見えるのは、優しさの出し惜しみがないからかもしれませんね。
■駆け引きからも解放
もちろん、「別に不特定多数の男子にモテる必要ないし」という、彼氏持ちの人や、そうでなくとも好きな男子に一途な人もいるでしょう。
そういった人は、多くの男子に与えるということはやめたとしても、ぜひ、「好きな人に対してだけは、与えることを惜しまない」ということを実践してみてください。
まずこうすれば、変な駆け引きから解放されて、心理戦による消耗がなくなります。
何かを返してくれないことにイライラし続けることもなく、「見返り」という目的がないからこそ、自分がストレスを感じない範囲内で人にやさしくできる。
「お店予約してあげたのに、ありがとうって言ってもらえない」とか「遅刻してるくせにごめんって言ってくれない」とか、そういう無駄なイライラや期待がなくなります。与えることを惜しまない自分なら。「無駄」と言ったのは、そりゃ、人は完璧じゃないので、自分の気にくわないことを恋人がすることなんて、それこそ付き合っているうちに数万回はあるはずで、いちいちそれに目くじらを立てていては、気が持たないという意味で、です。
「なんでもかんでも相手に尽くせ」ということではなくて、自分の心を広げて、相手に対して自分が与えすぎている(十分なリターンを感じられない)状態を、あえて選ぶ勇気は、すごく素敵だと思うのです。
さすがに相手も馬鹿ではないので、十分なリターンを自分ができていないこと、つまり「与えてもらっていること」、支えてもらっていること、優しくしてもらっていることには気がつきます。そうすれば、その気づきから、きっとあなたに対する「好き」の気持ちが膨らんでいくはず。
でも、そんなことを言いつつ、ちょっと鈍感そうな彼だったら、「たまにはありがとうって言ってくれると嬉しいな」と、さりげなくアピールしてみる「あえてのあざとさ」も忘れちゃいけないんですけどね。(遣水あかり/ライター)